養国寺の沿革

養國寺(ようこくじ) は愛知県西尾市にある開創600年になる当地きっての名刹の一つで、広大な境内の清々しい木立のなかに、本堂、書院、庫裏、鐘楼門、観音堂などの諸堂が立ち並び、歴史と信仰の深さを感じられる心安らぐお寺です。


〔養國寺本堂〕
養國寺本堂


・宗旨


浄土宗西山深草派
・本山 京都 総本山 誓願寺
・名称 重蔵山 剱光院 養國寺
・創建 応永15年3月(1408年 室町時代初期)
・開山上人 閑叟乗玄 (かんそうじょうげん)上人
・本尊 阿弥陀如来
・所在地 愛知県西尾市寺津町 (旧三河国幡豆郡寺津村) 参拝地図を表示

・略歴

寺津村 重蔵山 剱光院 養國寺は、後小松院の応永15年戌子の年、
閑叟乗玄上人の開建する所なり

剱光院
延徳2年、五代洞順上人の時。
松平助十郎張忠公を当山に葬り剱光院と号す。 松平張忠は、松平右京亮親忠の八男なり。延徳二年二月二十日織田信秀と井田の合戦の時負傷して其の臣、朝岡甚八郎が寺津の人で、密かに私邸に負い来たり意を尽くし療養せしもついに逝去せり。

養穀寺
11代太導顕心上人は、夙に智道兼備の聞こえあり。天正年中偶本山に番住して後陽成天皇の勅命に依って宮中に参内し、阿弥陀経を御前に披講し叡感の余り竹之内門跡に勅化「重蔵山養穀寺」と勅額を賜りたり。

養國寺
慶長6年6月27日に東照公(家康)が当山に参られ寺号の尋問あれば、勅額の事を以て答うと公稱歎していわく「重蔵は、宝蔵無盡にして養穀は、是五穀なれば万民を救うものなり所謂國を養うの意なれば宜しく養國寺と稱すべし」と、依って朱印21石を賜りたり


閑叟乗玄 (かんそうじょうげん)上人
〔養國寺 開山〕
上人は京師の人「龍藝上人」に師事し、圓福寺の学窓にありて研鑽し、学成り知徳共に高く、衆の推す所となりて版首に座し常に師に代わりて講授す。
師の龍藝上人が三河に移錫せらるるや隨い来たりて衆を督して四方に巡化す。
閑叟乗玄 (かんそうじょうげん)上人
上人がこの地に化導せらるるや道俗群衆して其の化を受く、上人此処は有縁の地なりと錫を留めて当山(養國寺)を開き盛んに法釋を潤す。
在住31年先師龍藝上人の遷化に遇い、其の後、鉢地山に移り、菩提院に閑居し、専ら浄業を修し、獨り垂終の日を待ち以て楽しみとせり。
嘉吉3年(1443)五月七日法弟を集めて予め滅日を示し、端然佛号を称し、初夜の更、眠るが如く座化し給へり。春秋78歳。

教空龍藝堯雲 ( きょうくうりゅうげいぎょううん)上人
〔法蔵寺/菩提院 開山〕
播州の人、貞治元年(1362)生まる。 幼くして同国五個荘、瀧口円福寺教神上人に師事し、顕密雙照内外の典籍に通ず。
錫を転じて円福寺五世善偉上人の弟子となる。
後小松天皇 至徳二年(1385)の春一夜、観音菩薩の瑞夢に感じ、師に願い出て円福寺の所化五十余人を率いて三州額田之郡山中郷に来たりて勅願道場出生寺を改め法蔵寺とし、浄土真宗(当時深草派こそが浄土の真の宗と言う意味のこの宗名を名乗る事を許されていました。)深草壇林を開設する。
法跡を弟子の暢光照雲に継承し自ら鉢地山麓に一宇を建立菩提院と称して此処に隠栖する。
永享11年(1439)8月7日 78歳にて遷化。
他界に先立ち法蔵寺と菩提院の鐘の音が朝夕聞こえる処で荼毘に付し葬るように遺言を残され、従って龍藝上人の墓は現在も菩提院と宝蔵寺の中間に当たる鉢地町開山と云う地名の残る所、鉢地と蒲郡を結ぶ県道の東側に建てられている。

>>>歴代上人略表



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