若住職の気まま放談
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初めまして、然阿といいます。
仏教について知らないことが沢山あり、まだまだ勉強中の身ですが、「仏教を現代人の感覚で」を目標にお話ができればと思います。

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2008/04/16
いま、ちまたではチベット問題がニュースで頻繁に騒がれています。
私は5、6年前になりますがチベットの人と話す機会がありました。

その人は日本語が堪能で面白い話しをよくしてくれました。
 
 チベット人のほとんどは熱心な仏教徒であること、僧侶を厚く敬っていて、ま
た以前のチベットはもともと放牧民族であったので、財産といえば羊であり、だ
いたいみんな同じぐらいの数の羊を所有していて、貧富の差がなかったこと。
もし、ある人が食べ物がなくて困っていても、周りの人たちが助け合って食べ
物を分ける習慣があること、本人いわく「貧富のさが無く故に罪人もいない幸せ
な社会だった」そうです。だった?というのは過去の話で現在(私が聞いたのは
5、6年前)はそれが崩れつつあるということです。その当時、中国からのもの
の流入がすごく本屋、映画館、ショッピングセンターなどが次々にできていった
そうです。そして中国の人は「文明の低いチベットに我々が施している」とことあ
るごとに言うそうです。「チベット人は何も望んでいないというのに…」とその人
は寂しそうな目をしていました。

posted at 2008/04/16 14:00:06
lastupdate at 2008/04/20 17:24:27
修正
 
2008/01/25
 つい先日、インターネットで映画を見ました。デュエリストという韓国映画で、その
中にお釈迦さんが言った譬え話がでてきました。

その話は金持ちの長者が何者かに毒矢を放たれて傷を負い、お医者さんが駆けつけて治
療をしようとします。ところがその長者はよほど腹が立ったらしく「誰が何のために自
分に毒矢を放ったのか」の方が気になって、周りの者に問いただします。しかし当然、
誰もそれを知る者はいません。それでも気が収まらずに、矢を放った犯人を捕まえてき
て、ここに連れてくるように命じます。そんなことより一刻も早く治療をした方がい
い、との周りの説得も聞かずに意地を張って犯人を連れてくるまで手当はしないと、頑
として治療を拒んだ。というお話です。

 この話を私は10年以上前から知っていますが意味が分かりませんでした。みなさんも
少し考えてみたら感じると思いますが、毒矢を受けて死にそうになっている人間が、生
るか死ぬかという人間がそんな「誰が何のために自分に毒矢を放ったのか」を気にするこ
とが果たしてできるでしょうか。そんな状況、私だったらまず「助かりたい」と思って治
療を受けるでしょう。そしてほとんどの人が私と同じで、すぐに手当を受け助かりたい
と思うことでしょう。ですからこの話が、どうも腑に落ちない私の心に引っかかり続け
ていました。そして今回、映画でこの譬えを政治になぞらえて以下のように話していま
した。

「国のえらい人はあの政策が悪い、あそこが悪い、ここが悪いと」そんな理屈を言ってく
だらないことばかりをし、結局、国政が悪化しているのに有効な手を打てない。

 これは私がその内容を意訳したものですが、これを聞いたときは何だか10年来、心に
つかえていたものがスーッととれたような気がしました。今の日本の政治問題において
も首を傾げたくなるような討論がテレビや国会で繰り返されています。そんな思いのあ
る中でこのような言葉を聞くと「あっ、なるほど」と納得できました。
 お釈迦さんの言いたかったこと、それは「毒矢を受けて死にそうになっているのは人
であり、限りある命です。人生はあっと言う間に過ぎ去ります。そんな事実に目を背け
てどうでもいいことにこだわり、無駄に人生を費やていませんか。しかしそれでは長者
と同じで現在、自分の置かれている状況を理解していないことと同じです。ですからお
医者さんの治療のように、今本当に自分にとって大切なことは何なのかを考えて行動し
なければならないですよ」ということなのではないでしょうか。
posted at 2008/01/25 10:23:16
lastupdate at 2008/01/25 10:23:16
修正
 
2007/11/28
 古い中国の言い伝えには十王信仰があります。これは初七日、二七日…七七、四十九
日、百日日、一周忌、三回忌で計十回、十人の裁判官による裁きがあるというもので
す。ですから七日、七日や年忌というものも、このような意味で昔から行われてきました。

 この中で五七日の裁判を受け持つのが、かの有名な閻魔大王であります。閻魔大王
は、もともとインドのヤマという、人類で一番はじめの人で、それ故、死んだのも一番
はじめです。そのことから死者の国の王様ということになっていました。そして死者の
王という強い立場から、しだいに人々から死者を裁く者と考えられるようになました。
私たちがよく知っている、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)で死者と一緒にその人が、
どのような良いこと悪いことを行ってきたかを見るという、閻魔さんになりました。

 しかしなぜ、と思いませんか。閻魔さんが一番偉いのに五七日という中途半端な場所
にいるのかというのは。それは、実は閻魔さんの性格に原因があるんです。この閻魔さ
んはもともとは死者の王にふさわしく、死んで一番はじめの初七日の裁判官でした。し
かし、あのようなとても恐ろしい顔をしていますが、以外なことに情にもろいんです。

 ある時、母親が子供を産み産後のひだちが悪く、運悪く死んでしまいました。そして
閻魔さんの前で必死に「生き返って赤ちゃんを抱きたい、抱きたい」と泣いて嘆願する母
親に負けて、思わず生き返らせてしまう。というようなことがあったそうです。しか
し、それは厳正な裁判を行わなければならない、裁判官としては失格であり、そのため
五番目の裁判官に格下げされたそうです。五七、三十五日もたてば、もし閻魔さんが生
き返らせようとしても、もう戻るべき体が無くなっているからです。このような話を聞
くと、何だか閻魔さんに私たちが今まで持っていた、恐ろしいばかりのイメージとは随
分違うような気がしますね。
posted at 2007/11/28 9:17:05
lastupdate at 2007/11/28 9:17:05
修正
 
2007/11/27
[]

仏性とは人々が誰でも持っている仏になれるという素質のことです。

誰もが持っていますがなかなか、この素をうまく大きく育てることができません。

たとえば近所の人との挨拶、他人との和を保つこれも立派な仏心です。また、人への手
助け、自然を愛すること、その自然(調和)を守りたいと思う気持ちの全てが仏性であ
り、この心を少しずつ大きく育て上げてゆくことが大切です。
posted at 2007/11/27 15:49:39
lastupdate at 2007/11/27 15:49:39
修正
 
2007/08/09
人にとって老化しない、死にたくないというのは、誰にでも心の片隅にある願望
だと思います。しかし、実際には年を取るし、死にもします。しかし、実は命が
生き残って行くために作った生命のシステムに他ならないのです。道具を使い
続けていればそのうち悪くなるように、体も使い続ければ骨がすり減ったり、足
腰が痛んだりします。また、いろいろな要因で体の様々な所も悪くなります。生
命は永遠に命を、その体ひとつで維持していくことが不可能であることを知って
います。したがって、生命は次のような方法をとりました。それは「同じものを作
って命を分ける」というものです。具体的にいえば人は子どもをつくることであ
り、樹木でば実をつくり子孫をつくるということです。

こうやって言うと、よく「年寄りは早く死んで、若い者のジャマをするな、というこ
とか!」と年配の方が気分を悪くし、怒りますが、そうではありません。先ほど
言ったように「同じものを作って命を分ける」すなわち「命を分ける」ということは、
自分の両親や祖父母、そのずっと先の先祖から、子ども、孫、曾孫の後の永
劫の子孫まですべてが、実は自分自身ということなのです。こうしてしっかりと
考えれば、同じ自分同士(ちょっと変な言い方ですね)大切にしあい、少しでも
長く一緒に居たいと思うのが当然であります。現代では「親、子どもが自分自
身?」と、不思議な感覚を覚えるかもしれませんがしかし、こういう考え方は日
本人には古くから、実はなじみ深い考えなのです。

伊勢神宮に二十年に一回、ご遷宮というものがあります。これは「全ての社殿
と鳥居を建て替え、神宝なども造り替え神体を遷す」ということが繰り返し行わ
れており、このことは、まさに生命の営みを古来の日本人が理解し、真似てい
たことに他ならないのです。
しかし現代、自分という認識が狭くなり、親は自分には関係ない。子どものため
に自分の生活を変えたくないなど、いろんなことを言う人が増えてきています
が、もう一度、古来の日本人が培ったものを見直し、自分自身というものが何
なのかを見つめ直す時が来ているのではないでしょうか。
posted at 2007/08/09 23:13:13
lastupdate at 2007/08/09 23:13:13
修正
 
2007/05/22
 よく一般に、子どもは汚れ無き純粋な心を持って、それはとても尊いものだと
されています。しかしそれは本当にそうなのでしょうか。

 仏教の世界では六道輪廻という思想があり、その世界のひとつに餓鬼道とい
う世界があります。この世界は食べ物が食べられないために、常に空腹感にさ
いなまれ、地獄に次ぐ苦しさを味わわなければならない恐ろしい世界です。ま
た餓鬼はもう一つの意味でも使われます。それは、いつも腹が減っていること
から食欲という欲が満たされずに、常に心から欲望が離れないでいる状態。つ
まり他をかえりみずに、自分の留まることをしらない欲望のままに生きる人の
ことを皮肉を込めて「あの人はまるで餓鬼だ」と言うことがあります。また子ども
を悪く言う場合の「ガキ」も同じ意味です。

 また人の道を歩むということは簡単な善悪論ですまないことが多々あり、そ
れを乗り越えて様々な経験をして大人になるということは「自分は悪いことはし
たことがない」とは、まれにいう人もいますが「自分は善いことしかしたことがな
い」とは誰もいわないでしょう。生真面目な人ほど、この過去にに対する経験の
後ろめたさというものがあり、時に大人として子どもを呵るのをはばかることが
あります。

 しかし、お釈迦さまは「人間の尊さは生まれによって決まるのではなく、その
人がどれだけ人生において経験(悩んだか)によって決まる」とおっしゃいまし
た。すなわち、年齢を重ねなければ人としての本当の価値が表れないというこ
とです。

 身は年を取るごとに衰えても、心は年を取るごとに研ぎ澄まされて曇りなきも
のになっていく。私もそんな風に考えられることができるように年を取っていき
たいものです。
posted at 2007/05/22 9:27:58
lastupdate at 2007/05/22 9:27:58
修正
 
2006/11/05
 心迷うとき、いにしえの先人の大いなる知恵に想いをめぐらし、心拠るところをさ

がす。ただこれだけのことだと、私は思います。

ですが、たったこれだけのことが私たちにはなかなか理解ができはなく苦しむので

はないでしょうか。世の中には単純なことのように見えていても、よくよく考えると不

可思議なことがたくさんあります。それを一生懸命に一つずつ考えてくれた古の先

人に感謝しつつ学びたいですね。

posted at 2006/11/05 16:09:13
lastupdate at 2006/11/05 16:12:21
修正
 
2006/09/18
私に、ある友達が言った言葉

今、貧困に喘いでいる人は来世の幸せを望み、

今が物足りている人は、今の人生を楽しむ。

そして今、とても裕福な人は、常識を覆すようなことを望む。
posted at 2006/09/18 14:59:40
lastupdate at 2006/09/18 15:01:29
修正
 
2006/07/15
 先日、バスに乗っていると、一人のおじいちゃんが満員の狭い中をかき分け
て前の方に移動してきました。その途中で、私にぶつかり、かなり強くぶつかっ
てきたので、私は思わずおじいちゃんの方へ振り向きました。そしたら目線が
偶然合ってしまい、凄い形相でにらまれてしまいました。私は少し気分を害さ
れましたが、狭い中、人同士がぶつかることは珍しくないので、それ以上考え
ませんでした。

 そして、そのおじいちゃんはバスの先頭まで行き、席に座っている学生と思わ
れる人の前にツカツカと寄って立ちました。そして「学生が年寄りが立っている
のに何で席を譲らないんだ!」といきなり怒鳴りつけました。しかし、座っている
人は無言で席を譲りませんでした。それに腹を立てたおじいちゃんは、ますま
す怒鳴り続けましたが、完全に無視を決め込まれたので今度はバスの運転手
に矛先を向けて、「何でもっと年寄りに席を譲れと言わないんだ!」と当たりま
した。これにはバスの運転手も困った様子で、「モラルの問題で自主的なもの
ですから」とすまなそうに言いますが、なかなか引き下がりませんでした。運転
手も途中から聞き流して結局、そのおじいちゃんは席を譲ってもらえませんで
した。

 どうでしょう?おじいちゃんの言っていることは確かに正しい道徳です。では
何故、こんなにおじいちゃんは不愉快な思いをしたのでしょう。それは、おじい
ちゃんが周りの人を不愉快にしたからです。人の心には感情があります。いく
ら正論を言われても納得するように話しかけてくれなければ、理解できたとして
も納得できません。現に人にぶつかっても反対に、にらむような人に優しく接す
るというのは、よほどの人格者でなければできないと思います。今回、人を説
得する時の態度や言葉の重要性や難しさなど、あらためて感じた出来事でし
た。

今回は若い人が席を譲らなかったですが、ちょくちょくお年寄りに席を譲る若い
子を見受けます。ですから、このおじいちゃんが言うほど、若い人のモラルが
低いとは、私は思わないです。悪しからず、

posted at 2006/07/15 18:41:25
lastupdate at 2006/07/15 21:48:31
修正
 
2006/07/08
 よく幼い頃に、何かをしてもらったら「ありがとう」とお礼を言いなさいと親や学
校の先生にいわれたと思います。しかし、僕は子どもの頃「ありがとう」がなか
なか素直に言えなかった記憶があります。ありがとうというのは感謝の気持ち
です。このありがとうは相手に対しての感謝の言葉なのに言った自分も不思議
といい気分になります。
 しかし、今の世の中、「やってもらうのが当たり前、当然の権利」など権利意
識が強すぎて感謝のしにくい社会になってしまい、素直にありがとうが言えな
いようになっている気がします。だけれどもありがとうという言葉は自分自身に
幸せをもたらします。ありがとうと言えば言われた人も気分が良いし、言った人
も気分が良くまた、「気は心」それだけで相手の自分に対する印象を良く与え
ます。またこのような循環を焦らずに続ければ、きっとあなたの幸せに一歩一
歩近づいてゆくことでしょう。

今更ながらと思うかもしれませんが、もう一度「ありがとう」の意味を考えてみま
しょう。「人のためにではなく自分のために」
posted at 2006/07/08 13:20:11
lastupdate at 2006/07/08 13:20:11
修正